中古車両


1990年代になると、新しいRV車はセダンのアンチテーゼとしてではなく、
セダンに要求されているものを採り入れたクルマになっていなくてはならなかったのだ。
これに、アメリカでの販売の失敗や総会屋との癒着を糾弾され、
さらにリコール隠しなどが重なって経営危機を招くにいたった。
この危機を乗り越えるために、ダイムラー・クライスラーと提携した。
むこうはアジァでの拠点がほしいこと、
三菱が小型車の開発技術を持っていることが提携の理由で,
彼らの主導で三菱の再生が図られると思われていた矢先の2004年になって、
資本の補強が実現しないばかりか提携関係も暗礁に乗り上げて、
独自に再生の道を探っていかざるを得ない状況に追い込まれた。

三菱は、関連会社の事故による、一時期の低迷からは抜けつつあるようだ。
そんな中、中古車両が社用車で活躍するようになる。
また、リースも最近増えてきているという。

ヤマトリース株式会社
http://www.yamatolease.co.jp/

一定の需要


日本ではフォードやシボレーが普及しているが、
これより小さい自動車をつくれば競合することがなく、

一定の需要があると思われた。

 

1台1000円の車両価格にすれば月に10台ほどの生産で
利益が出るという試算がたてられた。

エンジンは排気量が小さくとも直列4気筒として、
シャシーも四輪自動車にふさわしい機構にして設計された。

エンジンの参考にしたのは、1922年に発売されたイギリスのオースチン・セブンであり、シャシーのほうはフランスのベンジャミンだった。
1930年に完成した試作車が発展して、後の日産の量産車ダットサンとなる。

小型車


目をつけたのが新しい規定となった小型車である。
1919年にできた「自動車取締法」による小型自動車は、
運転免許がなくとも乗れる特典があり、主としてオート三輪車を対象としていた。

これが1930年にエンジン排気量500cc以下、全長2.8m以下、全幅1.2m以下、
全高L8m以下に改訂されることになり、
新しいジャンルの自動車が生まれる余地がつくられたのである。

「ダット自動車製造」


合併して「ダット自動車製造」として出発が図られたのは1927年で、
豊川の白楊社がその活動休止する少し前だった。

橋本は、合併を契機にxく身を引いて技術的な相談にわずかに応じる程度になっていた。合併したところで、新しい企画でクルマをつくることになった。
実用自動車をり仕切っていた久保田篤治郎は、
自動車が好きでメーカーとして生きる道をっていたし、
技術の中心となった後藤敬義も、それまでの失敗を生かして
新しクルマをつくりたいと思っていた。

大赤字


中古車を扱うリース企業も増えてきた。
大型車両であるトラックの需要もあるという。
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のちに日産となる第一歩も最初は苦しい道のりだった。
自動車産業という未来的な分野に鳴りもの入りで進出してみたものの、
実用自動車は大赤字を抱えて苦しい経営に終始し、
次第に久保田鉄工の下請け仕事が中心になった。

苦境を打開するために計画されたのが、
快進社力敬組して「ダット自動車商会」となってた橋本増治郎の会社との合併だった。

仲介したのは陸軍の能村中将だった。
資本と生産備のある実用自動車には軍用トラックをつくる技術力がなかったし、
橋本のところは軍トラックはつくったものの、
それを製造するための資金と設備がなかったのである。

ド・ディオン・ブートン社


ダイムラーやベンツがガソリンエンジンの自動車をつくるようになると、
アルベール・ド・ディオン伯爵はこの新しいエンジンに興味を示した。

これこそ自動車の将来に革新をもたらすものであることを直感的に理解したようだ。
しかし、トレパルドゥーは、
できたばかりの不安定なガソリンエンジンよりも信頼性を高めつつある蒸気エンジンを
支持した。
これまでの蓄積を重視する保守的な態度だった。
しかし、伯爵はガソリンエンジンはクルマの革新にとって
欠くべからざるものであるとじた。

アイディア


走行中のクルマの状態を知るためのデータの収集など
考えつかなかった時代であるから、実際に走ることで確かめるしかなかった。

クルマを走らせても、そこそこに走れば満足したのでは、
どのように改良したらよいかのアイディアは出てこない。

しかし、ドライブすることの面白さを体感することができる人が
実際的な技術の素養をもっていれば、試行錯誤のなかで道が見いだされるはずだ。

しかし、そんな人はそう多くはいない。
バッソールは、そんな類い希な才能を持っていた。