「ダット自動車製造」


合併して「ダット自動車製造」として出発が図られたのは1927年で、
豊川の白楊社がその活動休止する少し前だった。

橋本は、合併を契機にxく身を引いて技術的な相談にわずかに応じる程度になっていた。合併したところで、新しい企画でクルマをつくることになった。
実用自動車をり仕切っていた久保田篤治郎は、
自動車が好きでメーカーとして生きる道をっていたし、
技術の中心となった後藤敬義も、それまでの失敗を生かして
新しクルマをつくりたいと思っていた。